第1章 近況話しかけられるのが、ずっと怖かった
朝起きて白湯を一杯飲んだら、十五分ほど瞑想をしてから、散歩に出るのが僕の日課です。
新しい家はビーチのすぐ近く。天気がよければ裸足で海沿いを歩くのがルーティーンになりました。
オーストラリアでは、歩いていると知らない人からよく声をかけられます。おはよう、いい波だね、その程度のことです。でも、東京に住んでいた頃には、まずなかったことです。
でも、フレンドリーなオーストラリアのカルチャーを感じられて心温まる一方、正直に言うと僕はこれがずっと苦手でした。
相手の言葉がうまく聞き取れなかったら、気の利いた一言を返せなかったら、どのタイミングで挨拶すればいいのだろう。人とすれ違うほんの数秒のあいだに、頭の中ではそんなことを考えてしまうのです。
察し合う日本とは違って、こちらでは思ったことを言葉にして伝えることが求められます。相手を思いやることも、もちろん大事です。ただ、その両方を頑張りすぎると、自分が本当は何を思っているのかを置き去りにしてしまいがちです。
リラックスするために散歩をしていても、同僚と休憩で入ったカフェにいても、そんな調子でなんだかそわそわしてしまうことが、僕にはよくあります。
HSS型HSPという言葉があります。強い刺激を求めるのに、その刺激に人一倍まいってしまう。この矛盾した気質が、人と接する時にずっと僕を苦しめてきたのだと思います。
振り返ると、僕の人生は不安と恐怖に支配されてきました。親や学校や上司の期待に応えようとして、辛くても我慢して、円満であることを優先する。それに疲れると、自然の中に出たり、友人とくだらない話をしたり、サーフィンをしたりして、なんとか凌いできました。
そうやって逃げ続けた先が、オーストラリアへの移住であり、いまのByron Bayなのだと思います。
受験をしていい学校に入り、留学して、一流の企業か、弁護士か医師に。そんな親の期待や価値観に囲まれて育った僕にとって、そのレールから降りて自分の価値観で人生を選び直すことは、それなりに勇気が要りました。
今思えば、三十代半ばで大きく進路を変えたのは、他人の期待に知らず知らず応えようとしてしまう自分への違和感が、少しずつ積み上がった結果だったのだと思います。
そして、いちばん大きかったのは、逃げてもいいのだと気づかせてくれ、オーストラリアへの移住を後押ししてくれた妻の存在です。
人は、本能的に恐怖に敏感です。それは生き延びるために必要だった機能なのだと思います。ですから、不安や恐怖そのものをなくすことは、きっとできません。ただ、そこから目を逸らさずにいると、自分が何とは戦うべきで、何からは逃げていいのかが、少しずつ見えてきます。
逃げ続けた末にたどり着いた、この小さな海辺の街。声はかけてくれても、それ以上は踏み込んでこない。ここには、少し内向的な人が多い気がします。そのままの自分でいられることに、今はホッとしています。
さて、僕はここからどこへ向かうのでしょう。さらに逃げ続けるのか、それとも手に入れたこの拠点から外の世界へ新しい一歩を踏み出すのか。
静かに、でも力強く打ち寄せる波音が響くビーチを歩きながら、そんなことを考えていました。
第2章 今週の精密栄養学カフェインやアルコールへの耐性を決める遺伝子の話
これまで何度か、僕自身のドーパミンの代謝についてお伝えしてきました。今回はもっと身近なところに遺伝子が関わっている例として、カフェインとアルコールを取り上げます。
たとえばカフェインを分解するのは、CYP1A2という酵素です。ところが、この酵素に何の問題がなくても、コーヒー一杯でなんだかドキドキしてしまう人がいます。
僕自身、コーヒーは大好きなのですが、夕方に飲むと確実に夜まで残ります。長いあいだ、気のせいか飲む量の問題だと思っていました。実際には、分解する酵素、それを受け取る受容体、そして出てきた興奮物質を片づける酵素。この三つの組み合わせで決まっていたのです。
アルコールも、まったく同じ構造です。そして日本人は、アルコールを分解する最初の酵素の働きが、ヨーロッパやアフリカの人に比べて高い傾向にあります。ところが、それはお酒に強いという意味ではありません。
今回のLABOでは、この2つの例を取り上げながら、遺伝子について少し見ていきたいと思います。
同じ一杯のコーヒーやアルコールでも、体の中で起きていることは、人によってまるで違うのです。
LABO|精密栄養学の研究ノートカフェインやアルコールへの耐性を決める遺伝子の話記事を読む →
第3章 Q&A読者の方からのご質問
Q1遺伝子検査を受けてみたいのですが、値段にかなり幅があります。安いものと高いものでは、何が違うのでしょうか。
A同じ「遺伝子を調べる」と書かれていても、数万円のものから百万円を超えるものまであります。違いを生んでいるのは、どこまで読むかと、どうやって読むかです。一般の方が選ぶ時は、大きく三つに分けて考えると分かりやすくなります。
一つめは、SNPチップと呼ばれる検査です。価格は数万円。人の遺伝情報はおよそ32億文字ありますが、そのうち研究で意味が確かめられた数十万カ所の目印だけを読みます。お酒やカフェインへの強さ、太りやすさといった体質の傾向を知る入り口に向いています。ただし、目印を置いていない場所は見えません。遺伝子の一部がまとまって抜け落ちているような大きな変化も、ここでは見つかりません。自分の遺伝子に興味を持ち始めた方の、最初の一歩としておすすめです。
二つめは、全ゲノム検査のうち、ショートリードと呼ばれる方式です。価格は数十万円から。32億文字すべてを、数百文字ずつの短い断片に分けて読み、あとでつなぎ合わせます。いまの全ゲノム検査の主流で、研究の蓄積もいちばん厚い方式です。苦手なのは、同じ並びが何度も繰り返される場所や、大きな構造の変化です。体質を腰を据えて読み解きたい方に向いています。
三つめは、全ゲノム検査のうち、ロングリードと呼ばれる新しい方式です。一度に数千から数百万文字を続けて読むので、ショートリードが見落としやすい変化まで拾えます。その分、価格はさらに上がります。ただ、2026年のいまは、この方式を使った研究がまだ少なく、読み取った結果の意味を判断しきれないのが実情です。体質を知る目的で個人が選ぶ段階にはまだないと僕は考えています。
全ゲノム検査を選ぶ時に、もう一つ見ておきたいのが、同じ場所を何回重ねて読むかです。30倍と書いてあれば、平均30回読むという意味です。回数が少ない安価なものほど、読み残しが出やすくなります。
そして、どの検査でも最後に差が出るのは、読んだあとの解釈です。第2章のカフェインのように、分解する酵素に何もなくても、受容体の感受性が高ければ一杯で眠れなくなります。一つひとつの結果より、組み合わせをどう読むかが大事です。
遺伝子の結果は、一生変わりません。まずはSNPチップで自分の遺伝子に触れてみるのは、とても良い入り口です。そこから先へ進むかどうかは、関心の深まり次第で構いません。
実は僕自身、全ゲノム検査を受けて、ちょうど結果が出たところです。何が分かって、何が分からなかったのか。再来週以降、少しずつご紹介していきます。
Q1アーユルヴェーダでヴァータ体質と言われました。そもそもアーユルヴェーダとは何なのか、そしてどのような食事や生活習慣を心がけるとよいのか、教えてください。
A僕自身もヴァータなので、これは人ごとではないテーマです。はじめに、アーユルヴェーダそのものから少しご説明します。
アーユルヴェーダは、数千年前の古代インドで生まれた、世界最古の伝統医学のひとつです。サンスクリット語で「アーユス」は生命、「ヴェーダ」は知識を意味し、生命の科学と訳されます。目的は、病気を治すことだけではありません。健康な人の健康を守り、病んでいる人の病を治す。病気になる前に整えることを大切にする、予防の医学です。
アーユルヴェーダでは、人の心と体の性質を、三つのエネルギーの配分で捉えます。これをドーシャと呼びます。
ヴァータは、風と空の性質を持つ、動きのエネルギーです。呼吸や血流、神経の伝達を担い、ほかの二つを動かす原動力でもあるので、生命エネルギーの王とも呼ばれます。優勢な人は細身で冷えやすく、頭の回転が速く、発想が豊かです。
ピッタは、火と水の性質を持つ、変換のエネルギーです。消化や代謝、体温を担います。優勢な人は集中力と判断力に優れ、暑がりで、情熱的です。
カパは、水と地の性質を持つ、安定のエネルギーです。体の構造や潤いを担います。優勢な人は穏やかで持久力があり、どっしりしています。
大事なのは、どれか一つだけの人はいない、ということです。ヴァータ体質と言われても、ピッタもカパも必ず持っていて、その配分がその人らしさになっています。ですから、ヴァータを消そうとする必要はありません。
そのうえで、ヴァータを整える鍵は、三つの向き合わせで覚えると分かりやすくなります。冷えには温める。乾きには潤す。動きすぎには落ち着きを与える。具体的には、温かい飲みものとスープ。それから、セサミオイルで全身をさすってから入浴するアビヤンガという方法も、乾燥と緊張を和らげる習慣として伝わってきました。
アーユルヴェーダでは、ヴァータは消化の火が不安定で、消化液も酵素ももともと多くないと捉えます。ここに精密栄養学の視点から一つ足すなら、消化する力が弱いうちに体にいいものをたくさん食べても、かえって裏目に出やすいということです。一度にたくさんではなく、温かいものを少量ずつ、決まった時刻に。僕が朝いちばんに白湯を飲むのも、冷やさないためです。
では、なぜ僕が精密栄養学に、アーユルヴェーダの視点を取り入れているのか。
アーユルヴェーダには、生まれ持った体質を指すプラクリティと、いまの状態を指すヴィクリティという考え方があります。前者は一生変わらず、後者は日々の暮らしで変わっていく。実はこれは、遺伝子と血液検査の関係とよく似た構造です。遺伝子は一生変わらない設計図で、血液検査はいまの状態を示す数字です。
数千年前の人々は、遺伝子も血液も見ることができませんでした。それでも、人をよく観察して、生まれ持ったものといま起きていることを分けて考えていた。その知恵が現代の検査とこれほど重なることに、僕はいつも驚かされます。
別々の道具で調べた結果を重ねて見ると、手がかりが増えます。
一つの検査、一つの理論だけで人を見ると、どうしても見落としが出ます。遺伝子は何が起きやすいかを教えてくれますが、それを毎日どう扱えばいいかまでは教えてくれません。そこを教えてくれるのが、長い時間をかけて磨かれてきた暮らしの知恵です。反対に、アーユルヴェーダの見立てだけでは確かめきれないことを、数字が裏づけてくれることもあります。互いの足りないところを補い合えることが、統合的に見るいちばんの利点だと考えています。
最後にひとつ。風の性質が強い人が、穏やかなカパを目指す必要はありません。整えるというのは、別の体質になることではなく、自分の配分のなかで揺れ幅を小さくすることなのです。
Q1もっと筋肉をつけたいのですが、おすすめのプロテインはありますか。
Aまずは種類ごとの特徴から整理してみましょう。
牛乳のたんぱく質は、およそ八割がカゼイン、残りの二割がホエイです。ホエイプロテインは、この二割を取り出したものになります。吸収が速く、必須アミノ酸のバランスがよいので、食事で足りない分を補うには扱いやすい素材です。乳糖でお腹が張る方は、WPCよりWPI(アイソレート)を選ぶと楽になることがあります。
カゼインは逆に、胃の中で固まって吸収がゆっくり進みます。ソイ、エンドウ、ヘンプといった植物性は、乳製品が合わない方の選択肢になりますが、アミノ酸の構成では動物性に一歩譲ることが多いです。
ここで、多くの方が気にしている軸とは別の話をさせてください。
2025年に米国の非営利団体が、市場シェアのおよそ八割にあたる160製品を調べたところ、47パーセントの製品から、カリフォルニア州の基準を超える鉛、カドミウム、ヒ素、水銀のいずれかが検出されました。しかも植物性はホエイのおよそ三倍の鉛と五倍のカドミウム、オーガニック表示の製品は非オーガニックの三倍の鉛だったと報告されています。つまり、植物性だから、オーガニックだから安心、とは限らないということです。
そして、いちばんお伝えしたいのはここです。飲んだプロテインがしっかり消化・吸収できているかどうかは、血液検査から見えてきます。
精密栄養学の視点で、総蛋白の理想値は7.2〜7.5g/dL、BUN(尿素窒素)は14〜17mg/dLです。BUNはたんぱく質が代謝されてできる物質なので、しっかり飲んでいるのにここが低いままなら、量が足りないのではなく、消化・吸収でつまずいているのかもしれません。胃酸や消化酵素が足りていなければ、どれだけ良いものを飲んでも素通りしていきます。
製品名や効能について、僕の立場から申し上げることはできません。ただ、どの種類が自分の体に届いているのかは、こうして数字で確かめられます。増やす前に、まず確かめる。その順番をおすすめします。
なお、腎臓に持病のある方がたんぱく質の量を増やす場合は、事前に主治医にご相談ください。
